キリンの首とメッシュワーク的な進路の歩み方
こんにちは。メッシュワーク学生アシスタントの田口みおです。5月も終わりに近づいてきましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。わたしは春休みと同時に卒業論文に向けた、3回目のフィールドワークを始めました。
また、学部4年生ということもあり、ここ1、2カ月は卒業後の進路について考えています。院進しようか、働こうか、はたまたお寺に弟子入りでもしようかなど、選択肢が頭の中を行き来していました。毎回考える度に、自分の気持ちの傾く方向が変わることもあったため、どうしたらいいものかとしばらく悩んでいました。
将来の選択について誰もが悩むことがある今日ですが、今学期そんな現状をポジティブに捉えさせてくれる、進化生物学の論文に出会ったので、まずはそちらを紹介したいと思います。
『The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm』はGouldとLewontinという進化生物学のバックグラウンドを持つ二人によって書かれ、生物の特徴を、すべて適応や目的論として説明しようとする考え方を批判している論文です。
例えば、キリンの首が長い理由は、高い木の葉を食べられるようになるため、遠くを見渡せるようになるため、世代を超えてその形質が引き継がれ進化した、というストーリーは皆さんも聞いた事があるかと思います。つまり、理由や目的があったのだと。
GouldとLewontinはこれを批判する例として、イタリアのサン・マルコ大聖堂の「スパンドレル」に言及しています。スパンドレルとは、ドームとアーチを組み合わせた結果生じる三角形の空間のことで、この空間には美しい宗教画が描かれているため、私たちはつい「絵を描くためにその空間が作られた」と考えたくなります。しかしそれは因果関係を逆転させてしまっているというのです。

ヴェネツィア、サン・マルコ大聖堂のスパンドレル(出典:Gould & Lewontin, 1979)
まず建築構造があり、その副産物として空間が生まれ、後からその空間が利用されたのであって、空間それ自体は意図されたものではなかった―つまり、三角形の空間は事前に立てられた計画の一部にはなく、結果として偶然発生したものだというのです。二人は、生物にも同じことが言えると主張し、「何かの目的のために直接進化した」のではなく、発達・構造・歴史的制約の結果として生じた副産物が存在する点を強調しています。
そのためキリンの場合も、視野を広げるために首が伸びたのではなく、首が長くなった結果として視野が広がったのかもしれません。また、高い木の葉を食べるために首が伸びたのではなく、もともと首の短いキリンと長いキリンの両方がおり、その時々の環境に適していた首の長いキリンが生き残っただけなのかもしれません。
「最初からその目的に向かって進化してきた」と考えてしまう癖は、生物だけでなく、私たちの人生にも当てはまるのかもしれません。わたしは現代の進路の歩み方ともどこか重なるように感じたのです。もっというと、目的を持たずに迷いながら進むこと自体を少し肯定的に捉えられるようになりました。バックグラウンドの異なる人たちの話を聞くと、確かにそうだなと毎回気持ちの傾く先が変わっていたため、優柔不断さをネガティブに捉えていました。しかし、「進路選択」という言葉には、個人が明確な意思をもって、自分の未来を選び取るというニュアンスがあるように感じます。
今回の論文はそのような見方を、少なくとも間接的に問い直してくれました。GouldとLewontinの主張は、人や環境、偶然の出会いとの関わりの中で物事が形づくられていくという、人類学における関係性への視点にも通じるように思うからです。
Tim Ingoldは『応答、しつづけよ。』の中で、応答することを以下のように表しています。
「第一に、あらゆる応答はプロセスであり、それは続いているのです。第二に、応答は開放系です。それは、言われることや行われることが後続を招くため、目的地や最終的な結論を目指さないのです。第三に、応答は対話的です。
それは、孤立したものではなく、二者あるいは多数の参加者同士の間で行われています。」
特に三つ目の「対話的」な応答が、関係性を育んでいく上で鍵になってくると思っています。Ingoldは、注意を払うという意味で、attendという動詞をよく使用しています。「やるべきこと」に追われ、対話的になるより結論を急いでしまうことがわたしにもよくあるため、あらかじめ目的を定めて進む intentional(意図的)という姿勢よりも、その場で起こる出来事や他者に注意を向けながら進む attentional(注意深い)という姿勢を保てるよう日々意識しています。
宮本常一の『忘れられた日本人』に記されている有名な寄りあいの話は、深い注意が払われた対話の例だったように思います。長崎県対馬の伊奈を訪れた宮本は、古文書を借りてもよいかと村の人に尋ねます。区長は大切なものであり自分だけでは判断できないとして、20人以上の寄りあいにかけ、長時間をかけて、食事も取らずに話し合いを続けました。最終的に、宮本を案内した老人が「せっかくだから貸してあげては…」と一同に諮り、宮本に貸し出すことが決まったそうです。これは、特定の個人による決断や長老・区長の意向が重視された結果というより、慎重な対話を重ねるなかで、人々のあいだに醸成されていった関係性そのものから生まれた決断だったように思います。
何が出てくるか分からないけれど、まずはその都度出会う他者や出来事一つひとつに本気で向き合ってみる。そうすることで成される決断や選択は、「わたし」という自由意志を持った個人によるものというより、その場で交わされた応答や関わりそのものの中から、少しずつ形になってゆくのかもしれません。
フィールドワークも、卒業後の進路もどのような形になるかまだ分かりませんが、そのように進んでいけたらと思っています。
今後も、メッシュワークのメンバーがこのようなエッセイを定期的に配信していく予定です。ぜひ、気軽に読んでいただけますと幸いです。
参考文献
Gould, S. J., & Lewontin, R. C. 1979. “The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme.” Proceedings of the Royal Society of London. Series B, Biological Sciences 205 (1161): 581–598
Ingold, Tim. 2018. 『応答、しつづけよ。』 奥野克巳訳 亜紀書房
宮本常一 1984. 『忘れられた日本人』岩波書店
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