【メッシュワークのみちすがら。】重なり合う「首」に打ち込む一本の鍼
こんにちは、メッシュワークでリサーチや情報発信を担当している井潟瑞希(いがたみずき)と申します。リレーエッセイ「メッシュワークのみちすがら。」において「首」というお題を設定したのは何を隠そう私ですが、本題に入る前に、そもそも「みちすがら。」ってなんだ?という話をしたいと思います。
人類学という学問に出会ったばかりのころ、当時授業を取っていた先生から、ジョン・レノンの次のような言葉を教えてもらいました。
I'm an artist, man. If you give me a tuba, and I'll get you something out of it.
(僕は芸術家なんだーもし君が僕にチューバをくれたら、そこから何かを作り出して見せよう。)
ジョン・レノンは、チューバに関しては素人でした。それでも、彼の芸術家としての感性や思考から、結局「なにか(something)」を作り出すことができてしまう。彼がプロとして磨いてきた、ギターや歌の技術から敷衍するのかもしれないし、チューバを逆さにしたりアパートの二階から落としてみたり、あの手この手で未知の楽器を「音楽」や「パフォーマンス」に仕立て上げてみたり。
これが一体、人類学と何の関係があるのか。その先生が言いたかったのは多分、ジョン・レノンにとっての「チューバ」は人類学者にとっての「フィールド」と同じであってほしい、ということなのだと思います。どんな人類学者も一応のテーマや関心に沿ってフィールドワークをすると思いますが、例えばスーパーへ向かう「みちすがら」偶然目に入った物体、遭遇した出来事についてすら、フィールドノートを書くことはできます(Xで発信している「30秒フィールドノート」も、メンバーが何気ない場所の30秒間をフィールドワークしてみる、という意味で同じ意図があります)。そこで人類学は既に始まっているし「何からも人類学できる」ことを忘れないでほしい、というメッセージを当時の私は受け取りました。ジョン・レノンが未知の楽器からも音楽を作り出そうとするように。
「首」も、リレーエッセイのお題としてはちょっと不思議かもしれませんが、「首」に関係するものないかなあ、と頭の片隅で思いながら日常を眺めたときに目に入るものが、それぞれに人類学に取り組むメンバーのあいだで千差万別であることを面白がってもらいたい、という思いで始めてみました。
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実家に帰ったとき気が向くと、家族でお世話になっているN先生が経営している近所の鍼灸院に向かう。「家族でお世話になっている」と言っても、六枚綴りのお得な回数券を使い回しているだけだが、とにかくその小さな鍼灸院は、静かな住宅街の一角で四十年近く続いているらしい。
鍼灸の原理もわからないのにたまに足を運ぶのは、鍼を打ってもらうと身体が軽くなった気がするという単純な理由があるが、それ以上に、N先生から自分の身体について知らなかったことを教えられるのが面白い。初めて行ったときは開口一番、胸のあたりに日本人の十人に一人しかない筋肉があると言われた。ゴリラが威嚇に使う筋肉と同じ種類のもので、今の人類には不要だから鍛えることもできないし、ない人の方が多いらしい。でも私にはあってN先生は触ればわかる。最初は「なんだそれ」と思ったが、他にも「首のうしろは不眠のツボ」とか「左下腹部に血が溜まっている」とか「今は大丈夫だけど、今の歩き方を続けると十年後に膝が悪くなる」とか、自分が一番知っていると思っていた自分の身体の知らない「事実」について、行くたびに語られることにハマってしまった。
直近でN先生に診てもらったとき、いつも通りどこが悪いか聞かれた。その日は長時間パソコンに向かっていたせいか、あるいは数日前に予想以上に大掛かりな親知らずの抜歯をして身体が緊張したせいか、首のあたりが重く、痛いような気がしていた。
私「首が凝っているというか、痛いんです」
N先生「どこの首?」
「どこの首?」と聞かれた私は面食らう。首はあくまでも首で、ここもあそこもないのではないか。それでも私は質問に答えようと、自分の首の少し下の方を指差して「ここらへんですかね」と言うと、N先生は私の首の周りを少し触ってみてから、一蹴した。
N先生「あーそこは首じゃなくて。肩甲骨が凝ってるんだよね。肩甲骨の間ね。そのちょっと上の方の、これ頸椎(首の内部にある骨)って言うんだ。肩甲骨と頸椎が繋がってるというだけで、首の筋肉が痛いわけじゃないんだよ。だから首は大丈夫」
私「なるほど。そうですか、首は大丈夫」
私は思わず「首は大丈夫」と復唱した。そうか、私が「首」だと思っている場所は、誰かにとっては「首」ではないことがあるらしい。横になって、N先生に肩甲骨と肩甲骨の間に鍼を打たれているあいだ、少し前に母親とした会話が頭を過ぎった。
私「ずっとパソコンの前に座ってたせいで首が凝った」
母「首が凝るのは、あなたの姿勢が悪くてストレートネックになったから。普段の姿勢を正さないと良くならない」
私は、首の痛みについての幾つもの相反しているわけではないがバラバラな言葉の前で途方に暮れる。首の痛みの原因と解決策は、どこにあるのか。N先生が正しくて、私や母が間違っているのか。N先生の言葉のせいで、私が痛いと思ったのは果たして首だったのかすら怪しくなってくる。それとも、みんなそれぞれ視点が違うだけで、正しいとか間違っているとかはないのだろうか。
「首」の状態をめぐる複数の「語り」を前にして思い出すのは、医療人類学者アネマリー・モルの『多としての身体』という著作だ。モルがオランダの大学病院での調査で明らかにしようとしたのは、いかに「下肢の動脈硬化」が院内のいくつもの場所で、異なる形で現れ、語られるか、それをどう考えるかについてだった。患者は診察室で、自分の足の痛みについて語る。病理医が、切断された患者の足の皮膚細胞を研究室の顕微鏡で覗き込んで、異常を確認する。外科医が手術室で、患者の血管の壁の厚みを目撃する。これらいくつもの「動脈硬化」のフィールドノートを通して彼女は「一つの身体」も「実践において一つ以上のものに見えると同時に、多数に断片化しない」、「多元主義に移行することなく、多重的でありうる」と記述している。
小難しく見える表現だ。でもこれは、複数の「語り」を前にして「みんな違ってみんないい」に落ち着きそうになるところからもう一歩、踏み込もうとする態度として読めると私は思う。「動脈硬化」が、ひとつの動かない自然の真理として存在するというよりは、複数の場所で、複数の人間や複数の道具が協働して、いくつもの「動脈硬化」のバリエーションが生まれる。しかしそれらのバリエーションはバラバラに離れているわけではない。ズレながらも、重なり合っている。
もしかしたら私の「首の痛み」も、少し似ているのかもしれない。私の首の痛みを感じ、語ることができるのは私だけだ。でもN先生は私の首を触ってみることで、不調はむしろ頸椎と繋がった肩甲骨のほうにある、ということがわかる。そして母は、普段の私の姿勢の悪さを誰よりも知っている。「首の痛み」をめぐる語りは単に違うというよりは、それが誰の首か、どうやって首の状態をわかろうとするか...無数の状況のなかで条件づけられている。状況ごとに異なるバリエーションで現れる首の痛みは、しかし注意深く見てみるとそれぞれ否定しているわけではない。つまりそれは、モルが動脈硬化の事例から言おうとしたように、「私」と「あなた」の視点が違うから「語り」も違うよね、という認識論の問題ではなく、そもそも複数の「首の痛み」がズレつつも重なり合って存在しているという、存在論の問題なのかもしれない。
たぶん最も大事なのは、重なりあって「首の痛み」が存在している先で、対になった肩甲骨の間の適切な位置にN先生が鍼を打ち込むことによって、きちんと私の首(あるいは母にとってのストレートネック、あるいはN先生にとっての肩甲骨およびそれと繋がっている頸椎)の痛みが軽くなった、という実践であり事実だ。「こちらの方が正しい」と決めつけようとする態度からも、「人それぞれ、見方は違うよね」という態度からも、一歩踏み込んで私が希望を見出したいと思うのは、そこだ。一本の鍼を打ち込んでみよう、という臨床的な態度だ。
このことを思い出しながら、フィールドワークの過程でテキスト化された「書き起こし」をじっと読むことの落とし穴についても考える。インタビューが文字として固定されると、それが絶対的な事実のように見えることがある。書き起こされた膨大な文字を前にして、表面的な言葉の違いが気になったり、それぞれを並べて比べたりしながら「何が正しいのか」とか「人それぞれ視点が違うんだな」とか考えて行き詰まりそうになる。
そういう時こそ一回、書き起こしの前から離れたい。そして映像を何度も巻き戻したり、実際にそのフィールドで嗅いだ匂いや触った道具の感触を思い出してみたり、一緒にフィールドに行った誰かの言葉を思い出したりしながら、特定の語りを条件づける身体やモノや技術の状況のほうに踏み込む手がかりがないか、探ってみる。そうすると、表面的な「語り」の違いの裏側で、複数のかたちで重なり合いながら存在している何かが立体的に浮かび上がる瞬間がある。
メッシュワークで取り組んでいることでも研究でも、願わくばそうやって浮かび上がった対象に対して狙いを定めて、一本の鍼を打つように応答できるようなフィールドワーカーにいつかなりたい。代表の比嘉さんが「かかりつけ医のような存在になりたい」と言うことがあって、私はその真意をまだ測りきれていないが、なんとなくそういう、異なる状況で異なるバリエーションで存在している対象の、重なりしろのような場所を見極めて、一本の鍼を打とうとする臨床的な態度と、通じるところがあるような気がしている。
少し軽くなった首で鍼灸院から帰る途中、何だか肩のあたりに違和感があるなと思って手をやると、掌に何か小さいものが触れる。あれっと思ったら、掌に細い銀色の、キラキラした物体がくっついている。鍼である。抜き忘れたらしい。その瞬間、私のN先生に対する信頼はちょっと揺らぐ。もう七十代も半ばなのだ。それでも私は懲りずに、効いていないようで効いているあのひと鍼がクセになって、また足を運んでしまうのだ。
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